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更新日:2020年12月2日
本邦金の始出地であり、奈良東大寺の大仏完成の鍍金料として貢献された事は史実有名で、この事実を大伴家持が万葉集に詠っており、万葉史跡の北限として名高い。
淡水性の馬蹄形貝塚で、縄文時代の早期から晩期までの貝塚文化層が残されている。発掘により宮城県で最初の竪穴式住居跡2基が発見された。
東北地方に数少ない宮座組織の当屋制による行事であり、正月25日の白山祭におけるお弓神事を中心にした民俗行事は、東北の庶民信仰を見るうえに極めて価値高いものがある。
涌谷伊達氏四代伊達安芸宗重公の霊屋である。1673年の創建で総けやきの素木づくりで向拝がつき、宝形造りの屋根、床は石敷、宗重公の木像をおく。
奈良時代の天平21年に我が国で最初に金を産出したことを裏づける。紀年名入りの瓦製宝珠1点、重弁蓮花文軒丸瓦3点、偏行唐草文平瓦3点、丸瓦1点。
箟峯寺一山の中心施設として位置付けられてきた建造物の1つであり、県下最大級の密教堂として位置付けられる。地域信仰の拠点としての在り方を伺わせる貴重な文化財である。
現在の拝殿は、元禄10年(1697年)の創建になるもので、旧本殿である。元禄期の建築として、貴重な意匠が残されている。
本殿、長床は町指定。
見龍廟内にある霊屋4棟と、涌谷伊達氏代々の墓石18基、及び石塔があり、江戸時代中期以降の墓制として一群にまとまっているのは、近代霊屋の遺構を知る上で貴重である。
江戸時代中期のもので、屋根は切妻カヤ葺で軒が低く、安定感がある。素朴ではあるが、武家門として涌谷伊達氏の上級家中の門の形式を伝えるものである。
江戸時代中期のもので、屋根は箱棟、切妻破風造、カヤ葺で規模が大きく、材料も立派である。
どっしりと落ち着いたもので堂々たる感じがする。
本殿は、享和2年(1802年)の建築であり、涌谷伊達氏の氏神で、祭神は北斗星である。長床は安永4年(1775年)以前に建てられたもので、割拝殿形式である。
佐々木家は涌谷伊達家家中で騎馬御免の家柄、3貫961文の知行をもつ上級家中であり、屋敷地とともに古くからの家構を総体的に見ることができる。
江戸時代、涌谷伊達氏の在所であった涌谷要害内に位置し、現在は隅櫓と石垣の一部のみが残存する。
本拝殿は黄金宮について検証を行った沖安海の献金をもとに天保6年(1835年)着工、天保8年(1837年)竣工したもので、国史跡黄金山産金遺跡の中心的文化財として天平産金の歴史と由来を伝えている。
箟峯寺の坊舎は、その殆どが天保13年(1842年)の野火で焼失している。箟峯寺坊舎のなかで最も良好な保存状態を保ち、優れた建築意匠と間取りの配置から江戸末期の充実した住坊建築の典型として貴重である。
箟峯寺観音堂と共に、箟峯寺一山の中心施設として位置付けられてきた建造物であり、特に観音堂は県下最大級の密教堂として位置付けられる。地域信仰の拠点としての在り方を伺わせる。
涌谷伊達家が納めた箟峯寺梵鐘で「寛文の鐘」と呼ばれ広く親しまれてきた。その銘文は涌谷伊達家と箟峯寺、円同寺(現見龍寺)との関係を如実に示しており、江戸時代前期における地域領主と信仰について知る上で欠かすことのできない貴重な文化財である。
涌谷伊達家墓所にある涌谷伊達家六代夫人法身院(享保9年・1724年没)から十六代・胤正夫妻(夫人は昭和15年・1940年没)までの歴代邑主及び夫人の十八基の墓石群である。
涌谷伊達家の子女および縁者の墓石28基。これらの墓石群は、近世から近代にかけて、涌谷伊達家の歴代邑主および夫人の墓所とは明確に区別され、夭折した子女の墓域、それ以外の縁者の墓域に形成されたものである。その墓石群の変遷は、近世領主層の墓制および一門・涌谷伊達家を理解する上で欠かすことのできない貴重な歴史資料である。灯篭、香炉、花立等の石造物群を附とする。
町内に現存する「古式獅子舞」について、当時の状況を極めて写実的に描写している最古の記録であり、「古式獅子舞」の由来、種別、芸能等を解明する上で極めて貴重な文化財である。
天文21年(1552年)に亘理元宗が、京都愛宕神社を分社として移した際に同時に伝えられたものと伝わる。伎楽系の獅子舞と太神楽系の芸態が入り混じって形成されているとされ、県内に少ない太神楽として極めて貴重な無形民俗文化財である。
追戸横穴墓群のうち、A、B、C地区を指定。古墳時代後期のものとされ、追戸A地区1、2号墳代表的なものである。
佐々木家住宅と共に、江戸時代中頃から不変であるとみられ古くからの屋敷地の様子を留めている。
中世から、涌谷氏の城館跡としての利用が知られ、天小19年(1591年)以降、近世を通して涌谷伊達氏(亘理氏)の居館(涌谷要害)となり近世城郭として機能した。現在、涌谷要害の旧本丸跡には、旧詰ノ門付近の石垣・石段や太鼓堂が近世からの遺構として存し、往時の名残りを留めながら公園整備され、広く親しまれている。
箟岳のシンボルとしてあるもので、根元で1本になっているので俗に夫婦杉と言われている。高さ26.6メートル、幹回り4.55メートル。
箟岳のシンボルとしてあるもので、次郎杉と呼ばれている。高さ23.7メートル幹回り4.92メートル。
箟岳のシンボルとしてあるもので、三郎杉と呼ばれている。高さ29.5メートル幹回り5.15メートル。
箟岳のシンボルとしてあるもので、四郎杉と呼ばれている。高さ28.5メートル幹回り4.17メートル。
黄金山神社の神木としてあるもので、神社の聖域を守る。高さ28.4メートル幹回り4.1メートル。
葛西家再興を祈願して植えられたとの伝説があるさいかちの巨木。高さ14.7メートル幹回り4.46メートル。
葛西家再興を祈願して植えられたとの伝説があるさいかちの巨木。高さ8.7メートル幹回り4.1メートル。
葛西家再興を祈願して植えられたとの伝説があるさいかちの巨木。高さ23.5メートル幹回り4.22メートル。
いちいの木としては、県内でも数少ない巨木。高さ4.32メートル幹回り1.5メートル。
いちいの木としては、県内でも数少ない巨木。高さ7.87メートル幹回り1.1メートル。
新山速玉雄神社の歴史を語るいちょうの巨木。小乳根を持つ。高さ21.63メートル幹回り3.45メートル。
涌谷神社の社殿に至る石段左に位置し、町内のもみの木として最大級である。高さ20.32メートル幹回り2.82メートル。
亘理家の屋敷内に生育し、この種としては涌谷地方では例のない大木である。高さ13.18メートル幹回り1.57メートル。
葛西家再興を祈願して植えられたとの伝説があるさいかちの巨木である。高さ17.80メートル幹回り4.08メートル。
吉住滝不動内にある。けやきの希少な大木で、若葉と紅葉が素晴らしく枝の張りも良い。3本ある。
高さ29.45メートル幹回り3.14メートル。高さ27.50メートル幹回り2.51メートル。高さ27.50メートル幹回り2.19メートル。
いちいの木の巨木で、傘型に手入れが行き届いている。高さ4.48メートル幹回り4.92メートル。
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生涯学習課文化財保護班
宮城県遠田郡涌谷町字下道69番地1
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